2022/1/26 メタバースへの興味から、Facebookのアクセス減少の理由について考える。
まず初めに。これは私の日記でありメモ帳である、ということを書きます。
全ての記述は、私の頭の中の事柄です。
現在、就職活動を行わなければならない身である私は、
その精神的に大きな負荷のかかる活動から逃げるべく、
また、逃げた際のストレスを同時に緩和するために、
少しだけ先の未来の世界を予想して、半身だけ社会と向き合っている、
そんな状況である。
まず、ゲーム開発につま先を突っ込んだ私は、近い技術であるメタバース産業を考え始めた。
真っ白なキャンバスともいえるそれは、あらゆるポジティブな展開と、ネガティブな展開が予想できるもので、
せめて何か一つでもヒットしないことには、消えてなくなりそうな不確かさも感じられる。
人間の動物的な部分との兼ね合いもある分野で、懸念点の方が多く見られる産業ではあるが、
想像の範囲は無限大で、世間的にも注目を浴びている。
Facebook社がMeta.Platform社と社名を変更したことが記憶に新しい。
筆者は、そのCEOであるマークザッカーバーグ氏の生い立ちを、
メタバース未来予想の根拠の一つとして調査すべく、
更に英語学習がてら、NetflixのThe Social Networkという作品で勉強してみた。
ハーバード大在学中の彼は、少し人と違う浮いた存在として描かれており、
コンピューターを使った様々なシステムを構築しては事件を起こす、そんな人物だ。
変わり者で、優秀、すなわち天才として描かれている。
Facebookアプリは、アメリカのアイビーリーグに在学する優秀な学生たちの、
友だち作りソフトとして作られた。以下wikiより引用。
(アイビー・リーグ(英: Ivy League)とは 、アメリカ合衆国北東部にある8つの私立大学の総称。 ... 構成大学はブラウン大学、コロンビア大学、コーネル大学、ダートマス大学、ハーバード大学、ペンシルベニア大学、プリンストン大学、イェール大学。 いずれも各種ランキングで全米トップクラスに位置する難関校とみなされている。)
筆者が初めてFacebookをインストールしたのは高校生のころで、
今と比較するとSNS黎明期とも言えた時代だ。
当時のFacebookの印象は、「自らの人生を記して示す」
そんなクソみたいなものだった。
しかし、筆者には、優秀な高校に在学していたというスペックがあった。
(アイビーリーグの学生向けに作られたそのシステムを使うための資格はあったのだ。)
また、大学進学で多くの友人が全国に散るという理由から、
プロフィールを設定して、友人を追加していった。
その後、散った友人らとの縁を切らないための、近況報告システムとして活路を見出したのだ。
しかし、Facebookの本来の目的と異なるその利用法は、
すぐにクソと同じ味がするようになる。
自慢合戦ツールと感じられるようになったのだ。
そして、幸せなイベントが日々多発する''真''の勝ち組以外、記事を投稿しなくなった。
結果、私の周囲で利用する人間は減った。
なぜFacebookは広まったのか
前述のクソアプリとして紹介したFacebookだが、
Facebook社は膨大な成長を遂げ、GAFAに名を連ねるほどになった。
その理由として筆者は、このように思う。
「実名登録型の安心感から、SNS社会における人権または身分証のような扱いだった。」
ひとまず登録しておこう、そう感じさせるもので、
記事を投稿することも無ければ、友人の記事を見ることもほとんど無い、
それでも、最初の友だち作りで利用されるケースも多く、同じ会合で同席した人間の名前を、Facebookで知ることもあった。
便利な一面も存在した。
当初のネットワーク上の趣味を通じた友だち作りツールとは少し異なるが、
まさにソーシャルネットワークを体現しているサービスで、
集団の中で生きるヒト個人のための、補助的なツールとして機能していた。
アイデア段階のコンセプトと異なる利用法
先に説明した通り、
Facebookは企画段階のコンセプトとは少々異なる利用法をされている。
サービスの内容や質はどうであれ、その特性から集団心理のように広まったそれは、
現在アクセス数の減少を課題としている。
実名登録型という唯一無二の特性が、インターネットの利点を生かしきれないのだ。
(話題は逸れるが、Instagramはネットの「ログとして保存される」という実名登録型とミスマッチな仕様を、時間で消えるストーリーシステムを用いて解消しているのは秀逸だ。)
この課題は、アイデア段階のコンセプトが機能していないことに通じる。
当初の「優秀な学生のためだけのサービス」であれば、問題なく継続的に利用され続けるだろう。
しかし、多くの閉鎖的な社会で生きる人間たちにとっては、
新しい出会いがそう多く訪れることもなく、また新しい出会いを求める理由もない。
ましてや、Facebookというすべての知人の監視下で行う理由もないのだ。
オープンでありたいと思えるのは、現実のパーティー会場くらいで、
お酒も、おいしい食べ物も、気の利いた音楽もない、
プレーンなSNSで、私はオープンになりたいとは思わない。
「メタバースと求められる未来のサービス」については、次の記事で書こうと思う。